何故いじめと差別はなくならい

いじめと差別はなくならない

 

これは私の考えである、ニュースを見るたびにいじめの問題はとりあげられ、性差別とか新しい差別がどんどんとりあげられる今日

 

では何故なくならないのか

 

まず、人間というのは少なからず偏っているのだ、政治に関しても、趣味に関しても、好きな食べ物などなど…

 

私も偏ってる、そして今生きてる人間も少なからず偏ってるのだ

 

そしてその偏りというのは無意識下のもとで形成される。

また、人間というのは無意識のうちに自分に似た人間と集団を形成するのだ

 

友達なんて自分の趣味や話を理解してくれる人ばかりだろう、そういうことである

 

そういった偏りが似た集団の中では自分は、自分達は正しいと思うようになる

 

しかし、全く別の集団、自分達と違う偏りのグループとは違和感を感じるのだ

 

体の免疫システムなんてその典型である

外から出たウイルスは敵とみなされ攻撃される

 

これは、いじめや差別の根本に通ずるものがあるのではないのか

 

自分の中にある偏りと現実にある別の「偏り」との間に違和感を覚え攻撃してしまうのだ

 

それこそいじめの根本であり、なくならない原因であると思うのだ

 

いじめや差別は今後どんなに技術が進んでもなくならないだろう

 

以上は私の考えであり、一つの参考として見ていただけるとありがたい

前ならえの姿勢

私は先日散歩してる時大変興味深いものを目にした

 

それは子供達がフラフープを使って遊んでる光景であった

 

フラフープといえば腰あたりで回す一種の遊び道具だが、そこにいた子供達は回して遊ぶのではなく、縄跳びの代わりに使ったり鬼ごっこをする時フラフープを回しながら行っているのだ

 

フラフープという1つの道具に対して子供達は3つ以上の遊びを瞬時に作り出しているのだ

 

しかし、私が興味深いと思ったのが、その光景を見た大人(おそらく先生)が子供達に注意をするのだ

 

「フラフープはそうやって遊ぶものじゃないでしょ」と

 

きっと私たちは子供の頃は誰もが考えもしなかった遊びを考えている

 

しかし、大人になるにつれ注意されたり、叱られたりしてそういった自由な発想力、想像力は乏しくなってしまうのだ

 

小学校(下手したら幼稚園)から習う前ならえの姿勢もそうであろう

 

自由といいながらも結局は大人たちが決めた枠組み内での自由でしかないのだ

 

今の子供達にとって今の環境は些か退屈で窮屈なものでしかないのかも知れない